先のシリーズ、小池創造氏著の『坂本直寛の自由民権思想とキリスト教』と時を同じくし、発行された北海道オホーツク管内、北見市が編纂した「北見市史 上巻」に坂本直寛に関する記述が百ページ強あります。本シリーズは北見市のご了解を頂き、「北光社設立と推移」を市史より抜粋し連載して参ります。ご期待ください。
北光社設立と推移
第九話
北光社コミュニティ計画
明治二十九年(1896)、殖民地選定に渡道した坂本直寛は、札幌農学校長新渡戸稲造主宰の札幌の集りで、「北海道の発達」と題する講演を行ない、その中で北海道に造るコミュニティともいうべき殖民地の理想像を語った。
これは、彼が北光社に描いた理想像とみて差しつかえあるまい。
「余の本道に来りしは去る五月にして、其滞在中或は人より聞き、或は自ら調査するあり。永き経験を有する人々余を訪問する者甚だ多し。彼等余のなさんとする事業の為め、数多の忠告を与えてくれしは余の深く謝する処なるも、余は残念にもこれを容るる能わず。彼等の意見は余の考えと違うなり。彼等曰く、小作人を寛大に取扱う可らず。
よぎなく事をなさしめ即ち疲らせ之を使役すべし。金を前以て与うれば逃走するを以て之を与う可らず、云々と。
然れども余は移住民に対しては寛大にし、事を余儀なくなさしめては不可なりと思考す。見よ、今日の農場の有様を。土地を小作人に与うは稀にして、場主全く土地を有す。小作は純然たる小作たるに過ぎず。此の方法は将来北海道を盛大にし得るや否や疑うべし。小作人をしてただ疲労せしめ、自由を与えず、牛馬の如く労働これ事とせしめては、果たして北門の鎖(さ)鑰(やく)として保つ事を得るや。
新世界に通して得たる処の富の蓄積は、正直なる個人的企業に得られたるものなり。北海道の労力者のなす処、之れに同じ処ありや。大凡そ人事は大抵同一なる理を歩み行くものなり。欧と亜と土地異なるあるも道理は同じ。
此の同じ真理の下に発達進歩する者なり。
北海道の劈頭(へきとう)第一に迎えし殖民は山師的人物にして、また多くは内地の失敗者なり。故に彼等の心中義理もへちまもあらず。只私利を是れ事となすのみ。交際上であれ、事業上であれ、彼等に一片の道義心あるなし。
私利的の人物のみで将来発達進歩すべき北海道を形造るを得べけんや。
また、北海道は干渉による可らず。道庁設立以来移住開拓或は殖産を発達進歩せしめんが為め、人民に或は土地を与え、或は官金もて家屋を建築して与え、或は補助金を与えて事業を助く。斯くて今日道民の依頼心あるものは皆な政府より金を貰うてなせし結果なり。・・・・これ甚だ悪し。見よ政府干渉して完全に発達せし者未だ之れあらず。見よ笑うべき者甚だ多きは今日の状態ならずや。甚だしき極点とも云うべきは国庫金にて出来し青楼(遊郭)あり。・・・・・
国家は個人を以て成立す。分子不健全なれば其全体不健全なり。個々の人民自治独立の精神なくんば其国家の確乎たる独立望み得べからず。・・・思い見よ、此の自治の精神なかりせば北海道の将来果して如何。三国同盟の干渉の如きこと決して起らざる保証あるや。・・・・
今日平和の日に於て露国は何故無益と思うまでも兵備を厳にし軍艦を派遣するや。かの戦争の当時北海道の有志は此の北門の鎖(さ)鑰(やく)を硏に守り得らるるの気力ありしや。・・・・北門鎖鑰の要地に住する北海道人士は独立自治の精神を涵養し、時に臨んで内地に依頼せざる様に為すべきなり。
当今新聞紙報じて曰く。台湾土人何の野心あらず。只だ己が台湾の土地日本政府の手に奪取せらるるを悲しみ憂うるの可憐なる一片の憂国愛国(台湾島民の抵抗)の心より出しとせば、何ぞそれ感心すべきの至ならずや。・・
殖民地に於いては社会の制裁薄弱なれば、其影響人民の風俗に顕象す。わが北海道沿岸の村落を見来れば、慨歎に堪えざるもの多し。人は品格を要す。品格は自治の精神より来る。自治の精神なくんば村落の品格なし。・・・殖民地にして所謂小作主義を取り地主のみ多く取て小作の利不利を顧みざるが如くしては、自治の精神を人心に吹き込む事を得る能わず。・・・・小作人とするよりも小地主として少なくとも小土地を与え、自治独立の人とせざる可らず。又教育をせざる可らず。現時は彼等の子孫を奴隷的に養育するが如し。又自作せしめずして小作せしめて之れを疲労し、之れをよぎなく事をなせしむる如きは絶えてよからず。人云う、寛大にせしが為めに失敗せりと。之れ然らず、己の支配の力足らざりしによる。
彼等は自治を要す。自治の気象を養成せずんばある可らず。民官共に此の心掛けを要す。政府は北海道の政事の方針果して如何かはいざ知らず、兎にも角にも将来自治の方針たるを希望し、又かくあらざる可らず。教育の不完全なる、余の歎ずる処。宗教の等閑せらるるは余の慨する処也。・・・・」
直寛はさらに、「海外移民論」(前出)でも述べた「新欧羅巴の三個の事実」(殖民地は労工の場所、その繁栄は個人の思想と労働による、自由と干渉的障碍を免かるることで発達する)を、北海道発達の条件として述べたのである。
この講演内容は、直寛が北光社開拓に託した理想像とみて差しつかえあるまい。ここは民権と国権の両思想が、キリスト教精神によって統一されたコミュニティ(自治区)の姿が描かれている。
このコミュニティの原型が、1620年に信仰の自由を求めてメーフラワー号で新大陸アメリカへ移住した独立派のキリスト教による開拓にあったことは、想像にかたくない。自営農による平等の、そして精神的支柱をキリスト教に求めたコミュニティの原型は、遠い新大陸のニューイングランドだけでなく、近い北海道樺戸(現在、浦臼町)の聖園農場にもあることに、彼は言及している。直寛は、同志・武市安哉が明治二十六年(1893)に入植開拓(武市は翌年末に病魔に倒れた)した聖園農場に学んで、第二の聖園農場を道東に創設せんとしたのであろう。
しかしこのコミュニティ計画は、為政者の北海道開発計画と内面的には対立するものであった。
自由民権の激化運動を鎮圧した明治政府は明治十八年(1885)に兌換(だかん)銀行券を発行し、景気変動をおさえて金融状況を安定させることに成功した。そのため企業熱は高まり、実業家は資本蓄積の場として北海道開発を求め、また皇室や華族らは北海道を「無所有の未開地」として、大土地所有に乗り出した。明治二十年(1887)、北海道庁初代長官岩村は、「人民の移住を求めず資本の移住を求めん」との施政方針を演説した。この結果、一方では従来の官営事業を払下げて本州資本を誘致するのに囚人労働を使用した。他方、明治二十三年(1890)には兵制を改革して、屯田兵の資格を士族から平民にまで拡げ、中央幹線道路沿いの先駆的開拓に当たらせた。
また、これより早く明治十九年(1886)には、「北海道土地払下規則」を定めて、大面積経営に当る華族・官僚・政商に無制限ともいえる大土地を貸し下げた。
日清戦争は産業資本が大きく発展し、一方農民や商工業者の没落が進み、北海道への資本と労働力の移動が増大した。明治三十年(1897)の「北海道国有未開地処分法」は、農耕適地の未開地を、華族・官僚・実業家へ無償で無制限に払い下げる一方で、農業志望の移民はほとんど、小作農業の小作人の境涯に追い込まれ、自営農業も小作人に転落させた。坂本直寛のコミュニティ論は、これらの大土地所有、小作農場主義の北海道開拓方針に、対抗する性格を持っていた。
直寛のコミュニティ計画は、殖民会社北光社(資本金九万円)の株主の容れるところとならなかったようで、彼は北光社を去って聖園農場に移り、高知より家族を呼んで信仰と農耕の生活に入るのであるが、当初彼はその生活を北光社で営む予定にしていたのであろう。
直寛が、自分が社長である北光社をはなれて、聖園に移住した理由について、聖園出身の吉村繁義氏(故人)は、生前次のような意見を寄せてくれた。吉村氏は、聖園に育ち、その後青山学院に学び、満鉄図書館長をへて海外移住事業に打ち込んだ人で、直寛・安哉・前田駒次に接したことのある、昭和四十八年(1973)当時、唯一人の生存者であった。
「直寛氏は名家の出であり、財産家であったこと。当時の政治家としては英語にも練達した学者であったこと。
生来聖想家肌のひとが、のちにキリスト教信仰に入り、いっそうピューリタニズムになったのではないかと理解しています。中肉の丈高い、そして容貌は日本人ばなれのした立派な品位のあるお顔でした。当時壇上に立つのにフロックコートを手軽に着慣れたことも、ハイカラではなかったかと思います。
武市の実行の例(聖園農場創始)もあり、推されて社長になっても、経済(観念)皆無で沢本氏(楠弥、のち北光社社長)とくに駒次(前田)を実務者として携行したことで自信づけたのでしょうが、しかしあの草創の困難な不便な未開地(クンネップ原野)に、どうしてもこの貴公子然たる人はふさわしくないし、長い生活にはたえられなかったのだろうし、だが北海道へ移ることは同志との関係もあり、武市の開いた聖園ならば家庭も辛抱して生活できようと考えて、聖園に定住を決意したのだと思われる。そういうことを別の言葉でいえば、宙に浮いた存在と評しても、あたらない批判ではないかと思っています。また実際家でもなかった。まだ移住者の少ない北光社では、沢庵の重しの役も必要がなかったとも考えられます。
北光社入りの前に聖園教会で一度、北光社から土佐へ帰る途中で一度と、聖園教会で二回講演されたこと、子供ながらも私も覚えています。おそらくこの時浦臼に移住することを有志と相談し〝武市亡きあとぜひ来い″と浦臼有志も勧誘したということも、充分に想像されることであります。」(拙著『鎖塚』)。
吉村見解に、直寛の聖園移住の真因があるのかもしれない。 つづく。
第八話
明治二十二年(1889)二月十一日、片岡健吉、坂本直寛ら保安条例違反者は、憲法発布の恩赦で出獄、獄中で発病した沢本を入院させるために残った坂本・細川・武市は三月四日に帰郷した。
発布された憲法について、批判的な態度をくずさなかった土陽新聞は、「固より欽定憲法なり国約憲法にはあらざるなり。・・・・・然れども兎も角も憲法と名けられたる者が誕生したるに相違なきなり。・・・・先ず以て日本が憲法と称する者の之れある国と成りしことを失わざるなり、日本人民が憲法と称する者ある国の人民となりしことを失わざるなり、日本が世界の列国中に於て立憲国の籍に入りしことを失わざるなり(植木枝盛)」と評価し、国会さえひらかれれば藩閥政府の牙城をゆるがせるとの自信を、民権家は抱いた。
明治二十三年(1890)七月の第一回総選挙は、300人の衆議院議員を選出した。党派別は不正確ながら、自由党系(130)と改進党系(40)で過半数を制し、政府と民党とは予算案の審議で対決した。「民力休養・地租軽減」を要求する民党に対し政府は切りくずしに全力をあげ、その結果、土佐派の幹部を中心とする議員が政府と妥協して650万円の削減で予算は成立した。中江兆民は政府のいいなりになる「軟派」の議会を、「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職し、小樽の「北門新報」主筆に迎えられた。
これらの妥協に対し、キリスト者の立場からきびしく批判したのが、坂本直寛であった。坂本は自伝『予が信仰の経歴』の第十「予が政事上の思想」に、こう記している。
「予が従来政事上に於て執り来りたる主義は抽象的の自由主義、即ち厳き個人主義にして国家の興廃は一に此主義の消長にのみ関すと思惟せり。故につとめて急激進歩説を唱導したりき。蓋し予をして玆に至らしめたるには英仏米等の革命史大に興りて力ありき。予が此三国の革命史に就て見し所は革命の因固より一ならずと雖も其遠因する処は唯自由主義の発動なりと思い、其興廃の由て関する処別に無形なる、しかも至大なる一個の能力に係わる者ありとは曽て予の発見し能わざる所なりき」
そして神の導きをえた直寛は、次のようにいう。
「政事化の最も戒むべきは地位名誉黄白(賄賂)等の誘惑にあり。是等の誘惑は常に政事家に伴う処の者にしてまた能く其陥り易き通患なり。今日我邦政況日々に非なる現象あるは主として政事家が之が誘わるるに由るもの多しと為す。蓋し予既往を回顧すれば予亦此誘惑を免れざりき」
直寛は告白を敢てして、汚辱の政界から遠ざかる理由を明らかにしたのである。明治二十六年(1893)八月、県会議員の任期満了以後、直寛は議員に再び立とうとしなかった。
日清戦争は、国権論が民権論を圧倒する画期となった。民権クリスチャン坂本直寛もこれを義戦としたし、内村鑑三も「義戦」として日清開戦を支持した。かっての民権論者で、戦争に反対して国内改革を唱える者はほとんどなかった。 日清戦争は見事なまでに、反政府勢力を挙国一致体制の中に包みこんだのである。
日清戦後、鑑三は、「其主眼とせし隣邦の独立は措て問わざるが如く、新領土の開鑿、新市場の拡張」という帝国主義的侵略・膨張に走る日本国民を糾弾し、「日本国民若し仁義の民ならば何故に同胞支那人の名誉を重んぜざる、何故に隣邦朝鮮国の誘導に勉めざる」と批判し、以後反戦の姿勢を崩さなかった。
この点直寛は若干ちがっている。日清戦争と、その後の三国干渉は、彼のナショナリズムをはげしく刺激した。
「(日清)戦後欧米諸国益々東洋政略に其意を用ゆるに至り、特に露国が図南の動作いよいよ我邦人の注意を要すべき時勢と為りたるを以て、予は北海道拓殖の等閉に附し去るべからざるを感じ」(『予が信仰と経歴続篇』第三「予が拓殖事業を発起したる元(原)由」)た直寛は、メキシコをやめて北海道を選定したのである。
しかし坂本直寛が殖民の理想をして描いていたものは、「海外移民論」でも述べたように「中産階級(自営農)」による「自治区(コミュニティ)」の確立であったことは、彼が明治二十九年(1896)に札幌農学校で行なった演説「北海道の発達」からも明らかである。彼の国権論は、民権論の上に立つもので、国権論を強めたあとも、民権思想は脈々と流れていたのである。
第七話 民権論から国権論へ
明治十四年(1881)八月、『高知新聞』の「吾人は寧ろ自由の櫌乱を取る可し」の論文で、植木枝盛の抵抗権の要求に理論的基礎を与えた直寛は、十七年(1884)の加波山・群馬・秩父のおこった激化事件を、どう考えていたかを知る資料は、まだ発見されていない。
明治十七年(1884)の直寛の政治行動については、土居晴夫氏が「自由民権運動期における坂本直寛の行動」(『海南史学』昭和四十五年(1970)六月)に、次のようにまとめている。
明治十七年一月十三日 正午から九反田(高知)紅梅席で演説、「急進家とは誰か」。外に小島稔ら。(「土陽新聞」)二月三日 午後五時から玉江座で演説、「減租論を誤解する者に告ぐ」、外に安芸喜代香、坂崎斌、西森拙三、宮地茂春ら。(同前)
二月二十九日 愛媛県今治で自由党四国大懇親会が開かれ、小笠原鹿太郎とともに板垣退助に随行する。大会終了後、四国巡回委員として、愛媛県、香川県、徳島県を遊説した。(同前)
五月二十九日 長岡郡稲生村津野達太郎方で演説、「進取せよ 進取せよ」。外に徳弘馬域郎、安芸喜代香ら。
(同前)
六月六日 大阪横堀二丁目で開かれた自由党関西有志懇親会に出席。(自由党史)
昨日土佐郡役所に於いて開会になりし県会議員補欠選挙は坂本南海男氏が九百四十二の高点にて当選。(六月七日付土陽新聞)
六月十三日 午後一時から大阪道頓堀戎座で自由政談演説会が開催され、星亨、大井憲太郎に伍して演説する「諸君は日本の人民となりては如何」。(土陽新聞)
九月十九日 長岡郡白木谷村で演説「自ら病苦を招く勿れ」。
これらの演説内容については詳らかにはできないが、彼の行動が自由党の主流派を形成した土佐派の範囲から出ていないことが読み取れる。
当時の土佐派は、ヨーロッパ旅行から帰国して自由党解党の意図をもった党首板垣退助を擁し、関東・東北の困民党・小作党のうえに立つ革命的急進グループと対立していた。明治十七年三月の自由党大会では、最右翼の土佐派は、星亨=植木枝盛の中間派と結んで、大井憲太郎=「関東決死派」の急進グループを抑えた。急進的な民権思想家の双璧とうたわれた植木と坂本だったが、東京を中心に活動した植木が、土佐派から一歩抜き出す活動が出来たのに対し、ほとんど高知ですごした坂本は、左派であっても主流派内から抜け出すことはなかったと見られる。
合法主義の立場に立った土佐派=主流派は、自由党急進グループによる加波山事件によって、政府の弾圧と世論の攻撃が自由党に及ぶことを恐れ、解党の決意を固めた。直寛がこれにどう対処したか、詳らかでない。
土佐派を中心にした自由党主流派の解党論の背景には、国権論の抬頭があった。国権論への傾斜は、次の国際情勢によって強まる。国権論は、明治十五年(1882)から始まる清仏戦争と、朝鮮事変(十五年(1882)の壬午の軍乱、十七年(1884)の甲申事変)によって強まる。内治改良を第一に考えた民権家は、初め日・清・朝関係を平和的に調整することを期待した。
しかし、清仏戦争が列強アジアの危機を身近かなものにし、帝国主義支配の前兆をつげると、この状況への対応策として、列強アジア蚕食の中間入りを主張する福沢諭吉の「脱亜論」に共鳴する民権家も現れた。民権派の人々にも、国内運動のゆきづまりを外に転ずる志向があった。明治十八年(1885)、大井憲太郎ら関東急進派グループが、朝鮮開化派を援助するためとした渡鮮挙兵計画は、未遂に終わったがその一つの現われであった。
日本の自由民権論は、最初から民権論と国権論とを併せ持っていた。「自由民権運動の高揚期にあっては、国内の民主革命に向かって全力が集中された結果、国権主義への偏向に堕することを免れたが、運動が解体して国内の抜本的改革の望みが希薄になるにつれ、外に対する国権の要求が内に於ける民主主義の要求を圧倒して優勢化する。国内の改良を先とした平民主義さえも、日清戦争の時期にいたってついに対外侵略主義に転換するとともに、藩閥政府への妥協を敢えてするにいたるのである。」(家永三郎『民権論からナショナリズムへ』解題)「明治二十年代にはいって、国権論と民権論との微妙な関係が潜在的な形から顕在的な形に露呈してくるわけであるが、それにしても、この時期の国権思想は、たとえそれがショーヴィニズム(排外主義)の色彩を濃くもっている場合でも、なお依然として国内民主主義へのつながりを保持しており、その点で昭和時代の軍国主義などと非常に違っていることは看過せらるべきでなかろう」との家永氏の指摘は、坂本の国権論を知る上にも重要である。
坂本は、明治十八年(1885)五月十五日、宣教師ナックスから洗礼をうけ、高知教会に属して各地を伝道しはじめた。彼が、最後の政治活動としてはげしく燃えたのは、三大事件建白運動であった。明治二十年(1887)秋から暮れにかけ、地租軽減・言論・集会の自由、外交の挽回を叫ぶ民権家の声は、井上馨の「鹿鳴館外交」に反対する国権論者と手をくんで激しさをました。「外交の挽回」とは、条約改正の失敗を正し、国権を回復せよとの要求であった。
建白運動の先頭に立ったのは高知民権派で、総代片岡健吉・坂本直寛・武市安哉ら十六名が携えて上京した建白書には、「もし政府、内に民権を抑圧するも、外に国権を失墜することなくんば、姑(しば)らくこれを忍ぶべからざるにあらずといえども、内にしてこれを抑圧し、外にしてこれを失墜するに至らば、豈これを黙止するに忍びんや」と記され、三大事件の建白運動が、条約改正を軸に国権論に傾いていた事実を明らかにしている。
この運動では、久しく対立していた自由・改進両勢力が合流する勢いを示し、懇親会・演説会・運動会
(デモ)が昂り、内部の不統一もあって政府は危機感を深めた。
十二月二五日、政府は保安条例を発布して、集会や群衆を禁止解散させ、治安を妨害するおそれのある五百七十余人を、皇居三里以外に退去させた。高知からの上京者二百余名が退去を命ぜられ、うち*片岡健吉、西山志澄、※武市安哉、山本幸彦、細川義昌、*坂本直寛、黒岩成存、今村弥太郎、*沢本楠弥、前田岩吉、中内庄三郎、※土居勝郎、楠目馬太郎、山本繁馬、溝渕幸馬、*傍士(や)次(どる)の十六名が退去を拒否して逮捕された。また、一旦横浜まで退去した*安芸喜代香・横山又吉・長沢理定・黒岩一二・門田智も再び上京して逮捕され、都合二十一名が東京監獄署石川島分署に投獄されたのである。(*印は後の北光社、※印は後の聖園農場関係者)条約改正反対運動は、息をひそめていた民権派勢力を勇気づける一方で、ナショナリズムの傾向を強めるきっかけとなり、以後民権派と保守派との提携を可能にする条件を作った。
(つづく)
第六話 直寛の「海外移民論」
日清戦争直後(明治二十八年(1895)内か)に書かれたと思われるこの未発表草稿(直寛の孫直行氏の好意で借覧)は、美濃紙に墨筆で二三字詰二〇行に書かれたもので、次の八節から成っている。
(1)日清交戦は我邦人に海外雄飛の一大好機を与えたり
(2)我邦人戦後処する覚悟一般
(3)我邦人海外移民の必要
(4)殖民は文明進歩の一大動力也
(5)西半球に大いなる殖民地多し
(6)墨西哥(めきしこ)に於ける殖民地建設の計画
(7)殖民事業と宗教
(8)余が墨国殖民事業に関する理想
次に坂本直寛の原文を出来るだけ生かしつつ、彼の海外移民論を紹介することにする。(下線・括弧内筆者)
(1)では、「蓋し我邦が世人の意想外の此大捷の栄を博したるは、天皇の稜威 と軍隊の忠雄(勇)、其平生の練育軍紀の厳粛策の妙効及国民愛国心の一致等に職由する」と記し、「此交戦は抑我邦の義に出づ。其交戦の目的たる清国をして朝鮮の上に干渉するを絶たしめ、以て其独立を確認せしめたり」として、当時の民権家を含むほとんどの国民と同様、日清戦争を「義戦」としてとらえている。そして「吾人が世界に雄飛して大業を計るを以て大和民族の膨張を計る一大好機を得たり。・・・・・宜しく孤島的な小心を捨て世界的な大志を興すべきなり。今其機既に至れり。其機既に至れり。誠に看よ彼の十字軍の一挙か。」と、海外雄飛を熱っぽく訴えている。
(2)では、「我邦人が戦後に処すべき道一にして足らず。或は云う。大いに陸海軍を拡張して将来の世変に備うべし。或は云う、政事を改革して愈立憲政体を完美ならしむべし。或は云う、大いに教育の進歩を計って国家独立の精神を涵養すべし。或は実業の発達を大成して国民富強の基を確定すべし・・・・・」などを上げ、「今余は之を言わず」とした上で、「大いなる日本を世界に膨張させるべき也。予は此偉業の一つとして海外移民を企図せんことを希望する者也」と述べている。
(3)では坂本龍馬の雄飛思想に似た航海論の角度から述べている。
「今や我邦は征清の一挙ありし以来、大いに船舶を増加せり。宜しく之を以て航海通商殖民事業の為に用ゆべきなり。海外殖民地の発達は、航海通商の事業をして益拡張せしむ。我邦人は征清の余勢と其精神を以て、更に世界に向て是等の事業に従事すべし」とし、「今後世界に対して平時の事業を拡張して又優勝の位地(置)を占めんことを競争すべきなり」としている。
(4)においては、新世界(殖民地)を、政治改革の試験場として利用せよ、と次のように述べている。
「英国の如きすら、猶有名なる法律及政事(治)上の改革を行うに当て、豪州の恩恵を蒙ること少しとせず。
そは豪州に於て始め之を試験し、後ち漸く之を母国に採用すれば也。彼の貧民に投票権を与え、或は失費と手数を要せずして土地を購う便利をこれに与え、或は貧民の為に最も貴重なる法律を作る等の如きは、皆新世界より英国に入輸(輸入)したる賜と云うべき也。」又、英国に於て久しく恥辱たりし死刑公行の廃止の如きも、先ず豪州に於て之を行い、而して後母国漸く其例に習いたるに過ぎざりき」と述べ、その末尾を、「殖民事業、豈唯児孫糊口の為のみならんや」と結んでいる。
(6)では、メキシコが殖民地として適している経済的理由をのべた上で、この国が中等社会を欠くため「上等社会即ち富豪の民族独り専ら威権を恣にし、・・・・自由独立の実ある国と云うべからず。是れ余が同国を以
て我邦の殖民に適当せる土地と為す由縁(所以)也」としている。
(7)では直寛は、英国植民地が「独り長足の発達を為したる」理由として、「第一、殖民地は必ず労働の場処たるべく、決して遊惰の場処たるべからざる事。第二、殖民地の繁栄は多忙なる個人の思想と労力との任務ありて、決して遠方よりの力に由りて機関を使うが如きものにあらざる事。第三、殖民地は或る行為の自由あること無く、干渉せらるることに由りて進歩し能わざる事」の三点を上げ、「殖民地の衰朽する其元(原)因多くは、殖民徳性に乏しくして浮世的の快楽を愛し、博奕飲酒淪色等の悪行を為し、漸く懦惰に流れ精神衰微し風俗壊乱し、平和一致を失い以て殖民地を堕落するにあらざるは莫し」と、ピューリタン的な殖民意図を明らかにしている。そしてその模範的事例として、「遠く外国の例を引用せずとも近くは北海道の殖民地に於て現る」と次の例を上げている。
「故武市(安哉)氏が開きたる農場の如き、宗教が如何に其新団体を保つかを知るに足る。彼の篤信に由て組織したる月形村の一団は其風俗のみならず、事業場の労力に於いても他の村落と異なる処ありて、其発達速かなるものあるは、北海道人の親しく知る処なるべし。是れ唯其組織法の宜しきのみならず、宗教の練育大に殖民の精神を養い、風俗の純良潔白に保ち、以て殖民をして至大なる希望を将来に抱かしむる所以也」としている。
結語の(8)において直寛は、殖民事業の理想像をかかげる。
「共和政治の国民なりと雖も、其実猶自治たるに至らずして専制治下の状態依然として存在す。此国民を啓発せんには、第一多数の人民をして自治の気象を喚発せしむるにありとす。故に余の希望する処は、若し我邦の殖民地幸いにして発達するに至れば、自治区を設立して彼の国民に一般行わるる処の飲酒怠惰の陋習に反せる厳粛槿(勤)勉の良風を点じ、自ら始め自ら治めて以て国民自治の基を開き、他の殖民地及び土民村落の好模範と成り、以て建国の骨髄たるべき健全なる中産社会を建設するの模形(型)を造らんこと是なり。・・・・蓋し余が意、クライブ・コルテス等の如き野心あるに非ず。唯々平和の手段を以て理想を行わんのみ」とした。
以上の「海外移民論」は、北光社移民の思想的基盤を明らかにするものとして重要であるだけでなく、自由民権論から国権論に大きく傾斜した直寛の思想的変遷を知る上に、きわめて重要である。
坂本直寛の著書のほとんどを網羅した唯一の刊行物である『坂本直寛著作集』(土居晴夫編)は、自由民権の激化事件が頻発した明治十七年の一篇(「減租請願の主旨を誤解する者に告ぐ」土陽新聞)後、明治二十三年九月第一回総選挙後の「自由改進両党之諸氏に徴衷を呈す」(土陽新聞)までの六年間、一篇も記載されていない。
さらにはまた、明治二十三年(1890)十月以降二十九年(1896)二月の北光社開拓を片岡健吉宛書翰に託するまでの六年間、一篇も記されていない。
この「沈黙」の十二年間こそ、直寛が民権論から国権論へ、政治家からキリスト者へ、政治で追及して挫折したものを殖民開拓で生かそうと、思想的に苦悩した時期ではあるまいか。
自由民権思想家中最もラジカルな共和制を志向していた直寛が、「天皇の稜威」を説くに至る過程に何があったのだろう。「専制の治安」より「自由の擾乱」を採るとした直寛が、「厳粛勤勉」で「飲酒怠惰の陋習」を破った殖民を理想としたのはなぜだろうか。これらの疑問について、次章でふれてみたい。
第五話 直寛らが起草した「日本憲法見込案」
「日本憲法見込案」が初めて鈴木安蔵著『自由民権・憲法発布」(白楊社版・近代歴史講座第3冊)に紹介されたのは昭和十四年(1939)である。検閲の為「結社・集会の自由」(三五条)、四九条から九三条にいたる「帝室」に関する項、「国会は帝位を認定す」(九五条)の外五条も削除されたものであった。この草案は、多分政府の密偵が立志社からひそかに入手したものらしいと、戦後鈴木安蔵は『自由民権』(昭和二十三年版)で述べている。
この立志社の「日本憲法見込案」は、鈴木によって紹介されるまでは幻の私擬憲法草案とされ、後述する植木枝盛の「日本国国憲案」が立志社の「見込案」の成案ではないかとの意見が有力であった。
しかし大著『日本憲法成立史』の著者稲田正次は、立志社憲法成立過程を「明治十四年三月頃までに土佐の立支社の坂本南海男氏らの手によって日本憲法見込案が作成されたのであるが、同年八月に至って、その草案は植木枝盛によって改稿せられ、それが九月社内の討議に付されて承認され、かくて植木起草の日本国国憲案が立志社の成案とされるに至ったのである」としている。
また高知の碩学平尾道雄は、その著『自由民権の系譜─土佐派の場合』(昭和四五年(1970))で、「前者(日本憲法見込案)は主として坂本南海男によって起草されたもの、後者(日本国国憲案)は植木枝盛がこれを改稿したもの」と述べている。稲田・平尾とも、植木が明治十四年(1881)八月一日に「高知新聞」の主幹となり、八月四日のその日記に「立志社に往く。憲法を講す」同二十八、九両日「大風雨幽居、日本国憲法を草す」、九月十九日には「立志社に往く。憲法読会」と記したのが、植木の起草過程だとしている。
さて、坂本直寛が広瀬為興・山本幸彦とともに、立志社から命ぜられて起草した「日本憲法見込案」には人民主権の宣言規定はないが、立法権は国会に属し(二六条)、「国帝は二たび国会の議決を拒むことを得ず」(五九条)として国帝の権限を抑制し、人民主権を具体化している。また国会は条約承認権(六六条)と宣戦講和の権(七二条)を持つなどその権限は広汎で、特に「国帝は他国に転籍寄留する事」(八二条)と「反逆重罪に因て其位を失す」(八三条)ることを規定し、国帝の不可侵特権を認めず、かなり徹底した人民主権の原則を採った。
このように「人民主権主義の下における弱い君主制をみとめている点において、この案は日本国憲法の先駆的位置を占めるもの」(稲田正次『明治憲法成立史』上)と評価されている。事実、終戦直後、鈴木安蔵は「立志社草案」を参考にして、「憲法研究会」の「憲法草案要綱」を起草した。この要綱は、GHQ民生局にとり上げられ、原稿日本国憲法作成に生かされたのである。
第四話 坂本直寛の自由民権思想
坂本直寛がその生き方と思想について、父高松順蔵と叔父坂本龍馬の二人から、強く影響を受けていたことは前述した。
直寛が明治九年(1876)に立志学舎に入る前の「英学を志し県立学校に入り後東京に遊学」時代の思想は、わかっていない。この時代に、植木枝盛と同様、明六社の啓蒙主義から欧米の政治思想への関心を深められていたことも推測される。たとえば、明六社のイデオローグの一人津田真道の、「国の本は民なれば、君は末なること明らかなり」(『明六雑誌』八号)など、啓蒙思想は儒学の革命思想に次いで直寛の思想形成を助けたのではあるまいか。
「自由民権思想は、儒学的仁政・公議思想から啓蒙思想へという思想的流れに乗って形成され」だが、「政府は人民の幸福のため設けたものという同じ言葉が、啓蒙思想にあっては為政者の心構えとして説かれ、民権思想にあっては在野国民の権利として使われ」(遠山茂樹「自由民権思想と共和制」)たのであり、直寛も枝盛も啓蒙思想から民権思想への飛躍を、人民の抵抗権・革命権としてとらえた。
坂本直寛の最初の論稿は、明治十年(1877)の『海南新誌』(九月、六号)に、才谷梅次郎の筆名(叔父龍馬の才谷梅太郎になぞらえた)で「政論」として発表された。「其れ顚覆は必ずしも直接に圧制に因るに非ず。圧制なきも猶生ず。其の生ずるや則ち政府人民の進歩に後るるの時にあるなり」と。これは、啓蒙思想をこえた革命思想の展開であった。革命は「人民の進歩」によって必ず生まれるとする直寛の思想は、その後の彼をして終生人民の教育に力をつくす生き方を貫かせた。
明治十二年(1879)、直寛は福沢諭吉の『通俗民権論』の、「蓋し国に在て民権を主張するは外国に対して国権を張らんがためなり」との説を駁して、「外国に対して国権を主張するは内国の民権を増長せんがためなり」と訂正すべきだとした。
直寛は上からの国会開設に反対し、「国会請願者は今後何等の手段をなすべき乎」(明治十三年(1880)八月『愛国新誌』)で、次のように述べている。
「嗚呼請願者よ、吾人今後の策は各地各個の請願を止め、更に大いに天下の公衆と協議し、全国人民の過半数を得て進んで私立国会を設くるにあるべし」
直寛は全国人民による下からの私立国会の設立を目指したのである。
明治十三年(1880)六月、直寛は小島稔(直寛の妻鶴井の名義上の養父)とともに、婦人参政権の実現に尽力し、彼が住む土佐郡上街町会規則に二十歳以上の戸主は男女を問わず選挙権を持つ規定を挿入することを、県令北垣国道に認めさせた。叔父龍馬と同様、婦人尊重の思想を抱いた直寛が、婦人参政権の運動を指導し成功させたのである。
この上街町会の婦人参政権条項は、隣接する小高坂村村会規則にも波及したことが、『高知新聞』に報道されている。また、『土陽新聞』がまとめた「小歴史」(明治三十二年(1899)七月十九日)には、「その議員選挙の際は男子にして婦女に投票したるもの少なからず」と記し、日本国憲法による男女平等・婦人参政権が現行憲法規定より六十七年前に実施されていたことを伝えている。(この点、外崎光広『植木枝盛と女たち』にくわしい)
直寛は植木枝盛とともに、圧政政府に対する人民の抵抗権を力説しただけでなく、共和制の到来を主張した点で、日本の自由民権思想家中出色の人物であった。直寛の進歩性は、英国自由主義思想家、とりわけスペンサーに学ぶところが多かったことは、直寛の説論中スペンサーの論を引用することが多いことにも示されている。
坂本南海男がスペンサーに傾倒したことについては、「土陽新聞小歴史」(明治三十二年同誌に掲載)が、次のように伝えている。
「坂本氏は明治初年より英学を研究し、広く欧米の政理書並に政治史に通暁し、ミル、ベンサム、スペンサー等の著書は其最も愛読翫味せる所にして、殊にスペンサー氏の著書の如きは、当時我国中央都会の学士すら未だ之を閲読せしものなく、且つ同時代に於て始めて之を購読し之を訳述して広く天下に紹介したるものは松島剛氏の権利提綱なりしが、坂本氏は之に先んじて原書に依りて既に此書を立志社講堂に講述し、板垣君初め立志社先輩諸氏が曽てベンザム、ミル等の政論に慊焉たるものありしも、一たびスペンサー氏の説を知りて大いに自家の持論を確かめ、自由民権の議論をして更に一段の光輝を発せしむるに至りたり云々」
明治十四年(1881)の「政論」(前出)でも、直寛は述べている。「スペンサー氏曰く、夫れ政制は文明の或る度を表する者なれば、敢て之を恒久肝要のものなりと云うべからず」と引用したのち、「今日現に此の有様を表するは、即ち君民共和政治の類是れのみ」と述べ、「されば君主政権を有する権理(利)あらば人民も亦之を有する名儀なかるべからず」「国民の自由は物理天道の自然より有するものにして、決して君主より授る者にあらざるなり」と、君主主権に対して人民主権の思想を明らかにした。
また、「世の政府ややもすれば富国恤民の為なりとて、人民の私事に干渉して奇々妙々の条例を設る事」「これ社会の元(原)理に戻りたるもの」と述べて、儒学的・明六社的仁政論を批判した。
政府高官をして「フランス革命の前夜」とおびえさせた明治十四年(1881)の四月十七日、坂本直寛は高知新聞主催の政談演説会で革命論を展開した。この日、板垣、片岡、武市ら九人の出演で、場内は婦人を含む入場者で立錐の余地もなかった。直寛は「吾人は寧ろ自由の櫌乱取る」と題する演説をし、その内容を後日『高知新聞』に掲載した。この中で直寛は、「専制の治安は、治安にして治安ならず。自由の櫌乱は、櫌乱にして櫌乱ならず。
また専制の治安は社会の開明に益無きも自由の櫌乱はかえって国家を進歩せしむる」と、「自由の櫌乱」すなわち革命を支持した。
当時、啓蒙思想はもとより自由民権家の中からも、イギリスやフランスの革命における「惨劇」をとらえて、「革命は社会秩序を破壊する」との批判が、政府及び保守派に妥協する形で出されていた。もちろん民権家の中でも中江兆民や馬場辰猪らは、「惨劇」の責任は圧政政府にありと反論した。しかし直寛は、兆民・辰猪らの革命論をさらに前進させ、「革命は圧政に職由せず」「施政の度人民思想の度に相必適するを得ざる所あるが故」革命は起こるとし、「今日我邦の人民は既に世界の経験を熟知せる」ゆえ、「千七百九十年間の仏人の如き拙策を為すこと」はないとした。そして改革は「平和に出でざれば平和に出る」と述べ、「吾党は五帝三王の治を望まんよりは、寧ろ千七百年代の仏国の乱を慕う」(「革命を論ず」)と、革命論を前進させたのである。
直寛が民権家中その思想を最も突出させていた共和制志向の自由民権思想も、明治十四年の政変以降後退を示した。政変の中で出された「10年後立憲制」の詔勅は、民党・民権家をして国会開設への準備に没頭させ、政府並びに改進党からの共和論非難に対し、自由党は尊王論・立憲君主制を以て防ぐのに専念したからである。
この思想的後退は、自由民権思想が実践的運動との結合なしに進められたところに、最大の原因があった。
「自由自治元年」を標榜した秩父困民党の蜂起は、共和制論が最も昂ぶりを示した明治十四年(1881)から三年後のことであり、土佐派の直寛や枝盛の抵抗権、革命権の理論は、秩父困民党によって実践に移されたものである。
しかし直寛の共和制的民権思想は、観念的な弱点を持ったため、その後の民権思想に与える影響は、必ずしも大きくはなかった。だが、今から百年前の自由民権思想が共和制を内包していたことは、自由民権運動が豊かな可能性を示していたことになろう。そして直寛が新たな理想を掲げてその生涯を賭けた北光社移民の中に、この民権思想がどう反映しているか。これを探究することは、重要な課題といえよう。
第三話 坂本直寛の自由民権運動
明治二年(1869)、高松南海男(十六歳)は伯父坂本龍馬の兄、権平の養子になった。龍馬が殺されてから二年後のことである。
坂本家での南海男は、養母仲(四十歳)、叔母独(三十八歳)従姉春猪(二十七歳)、春猪の子鶴居(五歳)、同兎美(四歳)の七人暮らしだったが、二年後養父権平が他界し、十八歳の南海男が家督を相続した。
南海男が明治九年(1876)に立志学舎で学ぶまでの経歴は詳らかではないが、「英学を志し県立校に入り後東京に遊学し」(山本秀煌『日本キリスト教会史』)との記述から、英学に専念したことが推測される。「東京では攻玉社に学んだ」と、直寛の長男、直道が語っている。土佐「立志学舎勤怠表」には明治九年(1876)7月に南海男の氏名が記されている。彼の出席率は高く、成績は数学より読方にすぐれていた。
明治10年(1877)、南海男が最上級生に進んだころの立志学舎には、103名が在学し、その中にはのちに民権家として名をなした大石正己、傍士(ほうじ)了、江口三省、宮地茂春、小笠原鹿太郎らがいた。立志学舎の教育内容は高度で、教科書にはベンサムの法理書やミルの自由之理、ウールセーの万国公法などの原書が使用され、坂本の思想形成に大きく影響した。とりわけスペンサーの著書を好んだ坂本は、『社会平権論』や『代議政体論』など、まだ、日本で読まれていない原書をとり寄せて愛読し、ベンサムやミルの理論にあきたりなくなった、という。後年新聞記者になった坂本は、随所にスペンサーの著書を引用し、彼への傾倒の深さをうかがわせた。
坂本南海男の名が自由民権運動に出てくるのは明治十年(1877)六月で、西郷隆盛が挙兵し西南戦争が戦われている最中であった。立志社内にも西郷軍に応じようとする国権論的挙兵派と、明治七年(1874)の民撰議院設立建白書をさらに強めた国会開設を要求する民権派とがあった。六月立志社は総代片岡健吉の名で、京都の行在所に建白した。世にいう「立志社建白書」で、政府への鋭い批判でつらぬかれ、国会開設と地租軽減、不平等条約撤廃の民権運動の三大綱領が明確にされていた。政府は受理を拒否したものの、建白書はたちまち流布された。
六月二十三日の稲荷新地演劇場における立志社の演説会に集まった者四千、うち半分は入場できない状態で混雑甚しく、中途で閉会するほどだった。坂本は政体改革を訴える演説を行い、その後も、地方政社嶽洋社にも、所属し、立志社・嶽洋社、全国組織である愛国社(明治十一年再建)、自由党(明治十四年結党)などが主催する演説会に登壇し、自由民権運動の活動家になった。
明治十年(1877)七月、立志社機関誌『海南新誌』が発刊されるや坂本は編集に加わり、又同時に発刊された『土陽雑誌』の発行人になり、その後両誌が合併した『土陽新聞』のほか、『大阪日報』『高知新聞』にも、自由民権の筆陣を張った。その内容は、政府に対する人民の抵抗権や共和主義思想を含む急進的なものが多かった。
この頃から植木枝盛との交流が深まり、二人は互いに訪ねあい、また同じ演壇に立つことが多くなり、互いに裨益しあった。英書をひもとかなかった枝盛にとって、南海男はまたとない「相棒」(家永三郎『革命思想の先駆者』)であった。
植木枝盛は安政四年(1857)、土佐国土佐郡井口村(現高知市中須賀)の「中等藩士」の家に生まれた。坂本南海男より四歳年下である。明治十一年(1878)、植木家は小高坂村(現在高知市内)に移籍している。
枝盛は明治五年(1872)、県庁が新設した致道館で儒書のほか翻訳書をも併読し、福沢諭吉の『西洋事情』に啓発されて啓蒙主義に魅かれた。翌年、東京の海南私塾に給費生として入学したが、フランス人教師による陸軍士官の予備校的な性格に反ぱつして退学した。「洋学校に籍をおきながら終生横文字を読まなかった事実に徴すると、あるいは外国語の学習に手を焼き、口実を他に設けて退学を敢行したのではあるまいか」(家永三郎『植木枝盛研究』)と見られている。しかし植木は、「原書の代わりにめぼしい翻訳書を片はしから読破することにより欧米のブルジョアーデモクラシーの精神を的確に自分のものとすることに成功した」(前掲出)のである。
枝盛は帰郷した高知で板垣退助の演説を聞き、「頗る慷慨心を惹起して」(『植木枝盛自伝』)自由民権運動に参加した。翌明治八年(1875)に再び上京した枝盛は、板垣の娘の家庭教師になり、板垣家に住みこんだ。
東京滞在中の枝盛は、新聞投書家として思想活動に参加したが、その思想は概して穏和な開明主義で、権力と直接対決するものではなかった。しかし、たまたま『郵便報知新聞』に投じた「猿人政府」から筆禍事件を生じ、枝盛は獄中において言論・思想の自由と、これを確立するためには抵抗権と革命権が必要だとする民権思想に成長した。彼が民権演説を始めたのは、この筆禍事件後であった。
明治八年(1875)の大阪会議で参議に復した板垣と離れていた枝盛は、七か月後に下野した板垣の「蔭法師の如く秘書官の如く」板垣と意気投合した。明治十年(1877)、枝盛は板垣と高知に帰郷し、愛国社再興から自由党結成へと民権運動の全国的展開に、板垣の手足となって奔走した。この枝盛に最も大きな思想的影響を与えたのが、イギリス自由主義思想に秀でた坂本南海男であった。すなわち、枝盛の抵抗権・革命権の思想は、南海男のイギリス流共和主義思想によってさらに確固たるものにされたのである。
明治十二年(1879)十一月、大阪での第三回愛国社大会は国会開設願望を当面の運動方針とし、全国的請願斗争へと発展させた画期的な大会となり、参加した坂本南海男は東京を経て北陸を遊説して廻った。
明治十三年(1880)、国会開設請願運動はピークに達し、三月に大阪で開かれた第四回愛国社大会には、二府二二県の代表96名が約10万名の請願委託者名簿をたずさえて参加した。96名中40名が土佐派であることで、土佐立志社系主導権維持にかける熱意を示した。この年九月、南海男は養家先の義妹鶴井(十六歳)を小島稔の養女として妻にした。同月「自然法は人作法の拒防す可きにあらず」を演説した直後、板垣退助に随行して上京した。
この四月、土佐派が主導権を握る愛国社からはなれて国会期成同盟が結成され、これを恐れた政府は集会条例を発して弾圧した。しかし第二回国会期成同盟大会は十一月十日東京で全国13万名の委託をうけた代議員によって「国会を開設する允可(いんか)を上願するの書」を起草した。又翌年十月東京に再開し、各社が憲法見込案を持参す
ることを決めた。この大会に、立志社は坂本南海男と山田平左衛門を派遣し、憲法見込案起草委員に坂本南海男、広瀬為興、山田幸彦を指名した。
この年十月に出た「明治民権家合鏡」という相撲見立て番附表には、行司に片岡健吉、東の大関に板垣退助関脇に箱田六輔、小結に坂本南海男がランクされ、彼の活躍が世人の眼を惹いていたことを語っている。
明治十四年(1881)は全国政社で私擬憲法の起草が進んだ。しかしその内容が最も急進的だったのは、立志社の「日本憲法見込案」と植木枝盛の「日本国国憲案」だった。二つの憲法私案については、次節で詳述する。
この年政府の弾圧は強まり、六月十一日の仁井田村演説会は聴衆が溢れたが、南海男の演説は警官に中止を命ぜられた。また同月十五日の立志社演説会でも、中止させられた。
この七月、北海道開拓使官有物払下げ事件で世論は沸騰し、政府内からも大隈重信などの官有物払下げの非を鳴らす者が出るに至った。巡幸中の天皇が急遽帰京した翌十月十二日、官有物払下げ処分の中止と、きたる明治二十三年(1890)をもって国会をひらくという詔勅と、大隈の免官が発表された。明治十四年の政変である。
十四年政変の直後十月末に、板垣退助を総理に土佐派が主力となって自由党が結成された。
明治十五年(1882)五月七日、海南自由党が結成された。結成に当ったのは片岡健吉で、坂本南海男も創立委員として県内各地を遊説し、演説会はどこも盛況を極めた。しかし官憲の圧迫も強く、七月十六日高知新聞は廃刊し、「新聞の葬式」を行った。
十一月、将来の政党政治の指導者を目ざす自由党総理板垣退助と後藤象二郎は、政情視察のためヨーロッパへ向かった。そのころ、福島の自由党は大弾圧をうけようとしていた。この外遊費が実際は政府より出ていることを自由党と対立する改進党系新聞が暴露し、渡航前の九月には、立志社を代表して坂本南海男と小島稔が上京して、板垣に翻意をすすめた。反対を押し切って板垣は出発したことで、自由党の有力幹部田口卯吉、大石正己末広重恭、馬場辰猪らが脱党した。この間坂本は、中江兆民、河野広中(福島県自由党領袖)、植木枝盛らと会談する。
明治十六年(1883)、『土陽新聞』連載の絵入小説「汗血千里の駒」(坂崎斌)は、最終回に坂本南海男を取り上げた。
「坂本の家督を継ぎし小野淳輔は龍馬の甥にして前に高松太郎といえる者なり。現に宮内省に奉職せり。因に説く、此の淳輔の実弟南海男は龍馬の兄権平の家督を継ぎて坂本と名乗りけるが、夙に立志社員となりて四方に遊説し人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心なるが如き頗る叔父龍馬其人の典型を遺伝したるものあるを徴すべく、或は之を路(ル)易(イ)第三世奈波侖(ナポレオン)に比すと云う。」
この年三月、高田事件が起きる。
明治十七年(1884)は自由党内の急進派(大井憲太郎・宮部襄ら)を中心にした急進グループの指導で、群馬事件、加波山事件が起こり、さらには十一月困民党に結集した約1万の農民と秩父自由党とが結合した農民蜂起秩父事件がおきた。
士族や豪農中心の土佐派などの自由党主流派は、これらの激化事件を危険視し、自由党を解党してその累の及ぶことを避けんとした。秩父蜂起の三日前の十月二十九日、自由党は大阪で解党を決議した。結成の日からちょうど三年目のことであった。自由党切っての急進的理論家である坂本南海男が、激化事件を支援した形跡は見当らない。この年二月末、愛媛県今治での自由党四国大懇親会や、六月の大阪での関西有志懇親会に板垣とともに参加した坂本寛は、主流派の枠からは出ていなかったのであろう。
この年の十二月、南海男を改め直寛を名乗る。明治十八年(1885)五月、坂本直寛は高知教会でナックスより洗礼をうけ、これ以後政治活動と基督教伝道との両方に携わった。
自由党解党後、自由民権運動は敗北の一途をたどったが、明治二十年年(1887)、三大事件建白運動で、気勢を上げた。三大事件とは、地租軽減、言論・集会の自由、外交の挽回である。政府の条約改正失敗に力を得て、内政批判を噴出させた民権派は、久しく対立していた自由・改進の両勢力が合流する形勢をしめすに至った。
前年土佐郡より植木枝盛とともに県会議員に当選していた坂本直寛は、この年二月には物部川堤防修理に関する知事の処分を不服として、武市安哉とともに内務大臣に陳情、帰郷しては報告会を開くなど奔走し、九月に事件の解決をみたが、一方では六月の演説が治安に害ありとされ、一年間の県内演説禁止の処分をうけた。
十月、三大事件の建白委員として片岡健吉、武市安哉、細川義昌、山本幸彦らとともに上京し、十二月二十六日星亨宅に代表委員として会同し、総理大臣面会を協議した。しかし政府は、保安条例を発布し、一年乃至三年間皇居から三里以外への追放を570余名に命じた。片岡健吉ら21名は、退去を拒否してただちに軽禁錮三年に処せられた。彼らは明治二十二年(1889)二月の憲法恩赦まで東京監獄署石川島分署に投獄されたが、その中には、のちに聖園農場・北光社に関係する者が多くいた。
投獄された坂本直寛は、高知県議の身分を剥奪されたが、獄中で聖書を読み、安芸喜代香を入信させ、開拓の夢を描くなど信仰を深めた。
明治二十二年(1889)二月に出獄した直寛は、その夏妻鶴井を溺死で失った。翌年県議補選に当選したあと、中沢翠と結婚。明治二十四年(1891)に、再び県議に当選、翌年の二月の総選挙で品川弥二郎内相が指揮する自由党への干渉と戦って勝利する。だが、直寛の自由民権家としての運動は、三大事件建白運動以後次第に後退し、明治二十六年(1893)に県議の任期が満了した以後は政界の表面に出ず、その情熱は基督教伝道に注がれた。
第二話 龍馬の蝦夷地開発計画と思想
北海道開拓は、直寛より早くすでに叔父龍馬が企図するところであった。
龍馬の父八平直足は、潮江村郷士山本家の出身で、のち坂本家をついだ。この山本家からは沢辺琢磨(函館でニコライから受洗した日本最初のハリスト信者)や、武市半平太の妻・富や、立志社員宮地茂春らが輩出している。
八平の長男で龍馬の兄の坂本権平が養子にしたのが高松南海男で、のちの坂本直寛であった。龍馬と直寛とは血筋上と養家先との両方で、叔父、甥の関係であった。また、北光社の出資者の安芸喜代香も、権平の妻の妹の子で、直寛とは義理の従兄弟同志であった。喜代香は自由民権家として直寛と行を共にしたあと、直寛のすすめでキリスト者になり、また直寛とのあとをついで北光社二代目社長になり、北光社を訪ねている。
龍馬は坂本八平の次男で、三人の姉(千鶴・栄・乙女)と兄権平らの末弟として、天保六年(1835)に生まれた。父八平は、郷士に次男に生まれた龍馬を、江戸に出して剣術修行をさせ、ゆくゆくは町道場主として生涯喰っていけるようにとの親心を示したが、この江戸修行が龍馬の非凡な素質を育てることになった。
高知城下築屋敷に住む郷士出身の日根野弁治から小栗流剣術を学んだ龍馬は、嘉永六年(1853)黒船来航の年に、十八歳で江戸に出た。京橋桶町の千葉定吉道場で北辰一刀流を学んだ龍馬は、城士・郷士の差別がきびしい高知とはちがう、開放的な空気をも吸収した。五年後の安政五年(1858)、龍馬は北辰夢想流と小野派一刀流の免許を伝授されたがその免許状には千葉佐那女ほか二名の女性の名が記入されていた。龍馬が婦人と肩を並べて京都の街を歩くほど女性を尊重したのは、千葉道場の開放的雰囲気の影響かも知れないという。
この年一旦帰郷した龍馬は、築屋敷在住の絵師河田小龍に師事した。小龍は、アメリカに漂流したジョン万次郎(孫の中浜明氏は元紋別に在住)を取調べた人で、自由な通商航海の必要性と、志を抱く下等人民の力に依拠することの重要性とを、龍馬に教えた。龍馬は師小龍との別れにあたって、「人を作ることは君これに任じたまえ。吾はこれより船を得ることを専らにして、かたわら其人も同じく謀るべし」と語った(小龍『籐陰略話』)。
龍馬が長崎で海援隊を組織するや、小龍門下から饅頭屋の倅近藤長次郎(別名、上杉宗次郎)や医師今井純正(別名、長岡謙吉。海援隊書記)らが参加した。通商航海策と平民思想と海援隊結成とは、河田小龍から学んだ思想・経論を、龍馬が育て実践したものであった。
龍馬の北海道開発計画は、三十余年後の坂本直寛の北光社拓植移民の先駆的な考え方とうけとめられる。海援隊を組織した龍馬が、浪人集団による蝦夷地開発の計画を立てたのは元治元年(1864)で、この年起きた池田屋騒動と禁門の変によって、この計画は実行されるに至らなかった。
慶応二年(1866)、龍馬は薩摩藩を説いて洋型帆船大極丸を手に入れていた。買主は兵庫の商人海屋与三郎、請負人は長崎の小曽根英四郎、周旋人は亀山社中(海援隊)の高松太郎(南海男の実兄)で、代価は一万二千両
であった。この船を龍馬が、北海道開発計画に利用する予定であったことは、彼が慶応三年(1867)三月、河田小龍に協力を依頼した手紙に、「この度すでに北行の船も借りうけ候。その期限は三月中旬より四月朔(ついたち)日には多分出帆仕りたく」と記されていることかた明らかである。この第二次蝦夷地開拓計画も、船価支払いに難渋したため、船は長崎に回航されてしまい、ざ折した。
この直後、龍馬は薩摩の海軍にいた林謙三に宛て、「私し汗顔の次第」「大極丸の一条ヘチャモクレ(不調に終わる」の国言葉)」と手紙を出し、両人の間に蝦夷地開発の話が通じていたことをうかがわせた。龍馬は、薩摩の武力討幕断行を予見し、国内戦で失う人材を蝦夷地に送り込み、開拓を進め、さらに海軍術を育成すべきだと林謙三との間で論じていた、という。(平尾道雄『海援隊始末記』)
直寛が龍馬からうけついだと思われるものに共和思想がある。慶応三年(1867)六月九日、長崎から兵庫に向かう船中で龍馬が述べ、長岡謙吉が記述したのが「船中八策」である。船中八策は、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ」の第一条から始まり、「上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事」(第二条)、「新たに無窮の大典を撰定すべき事」(第五条)など、立憲的な国家体制を構想し、行きづまった封建状況を救済せんとした。この議政局を、土佐藩の後藤象二郎らは安易な妥協策として、雄藩諸侯の協議体制(公議政体)として利用しようとした。
龍馬はしかし、船中八策に示した国家体制の実現を、後藤のごとく安易は妥協案として考えていなかったことは、「船中八策」と内容的に密接な関係にある『藩論』によって明らかにされる。『藩論』は龍馬の死後一年の明治元年(1868)十二月に春陽堂主人の名で刊行されたが、海援隊の刊行物であるので、その指導者である龍馬の考えが強く反映されているとされる。(池田敬正『坂本龍馬』)
『藩論』はその第一章で王政復古を論じながら、「夫れ天下国家の事、治むるに於いては民この柄を執るも可なり。乱すに於いては至尊これを為すも不可なり」と述べて、人民が「この柄」すなわち主権を握ることを認め、「至尊」すなわち天皇をも決して絶対化していないのである。だから、「故に天下を治め国家を理(おさ)むるの権は、唯人心の向うところに帰すべし」と、世論を重視したのである。さらには門閥政治を批判し、家格制度の廃絶、家臣俸給の平等化を主張したほか、選挙制度の改革を提唱し、結局は藩士だけでなく「封内庶民」にも選挙権を認めることを力説した。龍馬は、急激的は平民性と共和主義思想に達していたのである。
龍馬のこの急進的な思想を最もよくうけついだのが、坂本南海男だったのであろ。
結成 第一話 坂本直寛の人と思想
渡道した土佐郷士たち
合資会社北光社をつくり、その社長としてクンネップ原野開拓の先達となった坂本直(なお)寛(ひろ)の入植の動機と理想は、彼の人となりと思想を探ることなしには理解できたないであろう。
坂本直寛(幼名・高松習吉、のち坂本南海男(なみお))は、土佐自由民権運動の代表的理論家で、植木枝(え)盛(もり)・馬場辰(たつ)猪(い)らと並び称される人物である。父は土佐安田村の郷士・高松順蔵で、母は坂本龍馬の姉・千鶴である。二人の間に二男一女があり、末子習吉の上に姉、茂(弘松宣晴に嫁す)と兄、太郎清行(坂本直)がいた。習吉は嘉永6年(1853)10月5日、黒船来航の年に生まれた。
父の高松順蔵は文武両道に秀でていた。江戸で経書・絵画・書道を修める一方、剣と居合術の奥義を究め、その居合術は小豆を口中からふき出すと同時に抜刀して切り、それが落ちない間に刀を収めるほどの腕だったという。
順蔵の義弟坂本龍馬も北辰一刀流(小千葉道場)の達人で免許皆伝の腕であったが、土佐の郷士は武士の中でも最下層の待遇をうけていただけに、武芸か学問で身を立てる者が多かったのである。
土佐藩主山内容堂は、順蔵が文武に秀でたることを知り、再三使者を差し向けて招いたが、順蔵は固辞してうけなかった。順蔵の胸中に、郷士に対する差別への憤慨があり、それが、「いごっそう(反骨)」の性格を形づくっていたからだという。
順蔵は生涯、土佐安田村の郷士として近郷子弟の教育にたずさわった。その著『経国私言』には、大化の改新を理想にし、「農は国の本にして政の先務なり」と述べているように、順蔵は民百姓の幸福を第一義とする儒学思想家であった。また、「大忠とは只君上一身の為にもあらず、国の為民の為後世稷の為よくよく分別あるべきなり」(『経国私言』)とも述べて、国と民のために尽くすことが急務だと説いている。この理想は、坂本龍馬が『藩論』(後述)に示したものとも合致し、のちの坂本直寛の自由民権思想の端緒を形成したかに想われる。
順蔵が悩み、龍馬が苦しんだ郷士制度の矛盾は、その後北海道に移住した土佐藩士の多くが、郷士出身者であることを併せ考えるとき、尋常一様の差別でなかったことを感じさせる。北海道移住の土佐郷士には、徳弘正輝(中湧別)、武市安哉(浦臼の聖園農場)、坂本直寛、嶋村喜多海(衛吉の遺族・紋別)らがいる。
土佐の郷士が武士にくらべていかに低く扱われたかは、山内容堂が郷士をもって、「士にてはこれなく、郷士と唱え候者也」(『山内容堂公遺訓』)と述べていることからもわかる。維新の変革期に土佐勤王党を組織した多くは、武市半平太(瑞山)ら郷士層であった。この勤王党を一時利用した山内容堂が、一たび公武合体の時流となれば、たなごころをかえして瑞山らに「死を賜う」た背景には、郷士の分際で天下に口出しするとは「下郎推参な」との意思が動いたからであろう。
瑞山と共に捕われた島村衛吉の場合は、士分の扱いすら取り上げられたことを、次の嶋村家文書(紋別市)が語っている。
「島村衛吉は島村壬生男の二男。島村家、慶長五年主家(長宗我部―小池注)没落後浪人となって、土佐国香美郡下島村に居住し、正徳四年郷士職に召し抱えられた。衛吉は幕末に当たり、武者修行のため陸路江戸に至り、桃井春蔵の門下に入り、皆伝を受けた。幕府政を失するや、諸国の勤王の士起ち、帰国して武市半平太と共に勤王を首唱した。
当時土佐藩佐幕の首領たる吉田元吉(東洋)刺客に遭うや、その疑いにより武市と共に入獄、上り屋に居ること三年、白状せざるにつき格式を召され寺町の獄におとされた。拷問を受くること三日、その時獄吏に向かって、『男子ひとたび知らぬと云いしこと、知りたることにても口外せず』と大言し、拷問に斃れた。その後王政復古、明治の御代となり、特旨を以て内閣より従四位の位階を賜与された」(下線、筆者)「格式を召された」とは武士の身分を取り上げられたことで、その後は切腹も許されず、町牢に入れられて拷問死をとげたのである。郷士だったが故の措置といえよう。
土佐の郷士はなぜかくまでに、士分としては不当な取り扱いをうけたのであろうか。そこには土佐特有の「一両具足」といわれる長宗我部藩政以来の歴史がある。『高知県史要』は、次のように述べている。
「初め長宗我部氏の時代に、一両具足と称する一種の屯田兵を置きしが、何れも多少の土地を有し、平常馬を養い武具を持して武を講じ筋骨を練り、傍ら耕作に従事せるが、田畝に出る時は、必ず具足一領と草鞋(わらじ)とを槍頭に掛けてこれを隴(ろう)上に立て置き、一旦緩急あれば直にこれを執て戦陣に赴くの組織なり、此れ等の兵は軽捷精悍にして、土佐特有の強硬にして制し難き気象を有し、その数九千余人」
中世社会の兵農分離の一形態である一領具足は、関ヶ原の合戦で主家長宗我部が破れ近世を迎えたことで、激浪に翻弄される。命からがら帰国した長宗我部盛親は、一領具足たちを浦戸城下に集め最後の一戦を試みんとしたが、翻意して家康に詫びる。だが家康は盛親を許さず、土佐一国を山内一豊に与えた。長宗我部家臣二万が浦戸に集結、上士層は山内に降ったが、下士層の一領具足は抵抗した。世にいう浦戸一揆である。戦死した一領具足の首273首級は大阪へ送られ、家康の実検に供えられたという。一領具足の反骨は、その後も「いごっそう」として持ち続けられた。
山内の入国で旧一領具足は牢人させられ、本百姓として格づけされたが、被官(家来)を召し抱えて賦役労働させる権利は留保された。はげしい抵抗を予想した山内氏の譲歩であった。しかし旧一領具足は、入国した山内氏への抵抗を止めなかった。
「ニ君に仕えざるの意地からして、其まま山谷にて、春は葛(くず)を掘り夏は蕨を掘り、野地を開き粟を作り、今日の暮らし方は葛布太布を着し、刀はさび候えば自らとぎ、柄(つか)は藤かづらにて巻き、たとえ葛蕨を掘り候ても刀は帯び候」(『土佐国地方資料』)
反骨の一領具足を士分にとりたてたのが土佐藩中興の家臣・野中兼山である。物部川の山田堰(ぜき)、仁淀川に八田堰を築いて開発した新田に、旧一領具足千人を入植させ、「郷士」とした。徳弘正輝・武市安哉・嶋村喜多海らの先祖は、このようにして郷士になった。
坂本家の租は長宗我部時代に一領具足であったという説もあるが、確認されていない。坂本家の先祖は、旧才谷村(現南国市才谷)に住み、八平衛守之の代に至って寛文六年(1666)、高知城下に移って質屋を開業した。
これが才谷屋の始祖とされ、やがて酒造業を営んで城下屈指の商家となった。
才谷屋は六代目八平衛直益の明和四年(1767)に坂本姓を名乗り、四年後に長男兼助が郷士坂本家を相続し、坂本姓を名乗った。
土佐郷士坂本龍馬は、姉千鶴のとつぎ先である安田村の郷士高松順蔵家をしばしば訪ねたから、順蔵の次男南海男(のち直寛)に親しむ機会が多かった。南海男は龍馬より十九歳年下だから、龍馬が脱藩したときには九歳の少年であった。しかし海援隊結成後の龍馬が、長崎・下関から送った書簡を筆写した順蔵の口から、龍馬の人となりや考えが南海男に伝えられたことは充分考えられる。
その上、南海男の兄・高松太郎は、叔父の坂本龍馬とともに土佐勤王党に加盟した討幕の志士であった。その後海援隊に参加して小野淳輔を名乗った兄太郎から、龍馬の思想行動を、南海男がくわしく聞いたことも考えられる。
龍馬が土佐藩を脱藩した以後、南海男は直接叔父龍馬に逢うことはなかった。けれどもこの二人がその思想と行動において符号するところが多いのは、郷士という同じ出身と、叔父・甥に血筋と、南海男の父や兄が龍馬を敬慕していた結果ではあるまいか。
つづく。
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